ごきげんよう、コヒナタです。
本日は、谷崎潤一郎の知られざる生涯や、どうして文豪になれたのか、作品についての解説をしていきたいと思います。
目次
谷崎潤一郎の生涯
谷崎潤一郎は1886年、おおよそ伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した頃、東京日本橋の商家に生を受けますが、その後祖父の事業は失敗し、次第に没落の一途を辿ります。
谷崎自身は「神童」と呼ばれるほど頭脳明晰で、現・日比谷高等学校で一年生の時に『厭世主義を評す』を書いて周囲を驚かせるほどでした(笑)。
その後も学業はすこぶる快調で、東京帝国大学に進学しますが、学費滞納ににより中退します。
ここまでの来歴は自身の『異端者の悲しみ』という短編小説に表されていますね。
作中では帝大の学費は親戚に出してもらっていたようで、実際親戚から学資の援助を受けていたようです。
最終的には東京帝国大学を中退してしまいますが、それは作家生活の始まりでもありました。
なぜ永井荷風らに絶賛されたのか
帝大に進学した谷崎は、文壇に出られない焦燥感により神経衰弱に陥り、放浪生活の果て、永井荷風の『あめりか物語』を愛読するなどしていましたが、それでも和辻哲郎などが参加する第2次『新思潮』に処女作『刺青』(しせい)、次いで『麒麟』を発表し、さらに『スバル』にも『少年』『幇間』『飈風』『秘密』などを発表したことにより、永井荷風や森鷗外らに絶賛され、文壇の人となったのでした。
ではなぜ、永井荷風、森鷗外などの文豪は、谷崎を文壇に迎え入れたのでしょうか。
それは当時の文学史的時代背景を少し説明する必要があります。
当時日本の文学界では、自然主義文学が席巻しておりました。
自然主義とは、自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定するというもので、代表的な作品には田山花袋の『蒲団』や島崎藤村の『破戒』などがあります。
しかしながら、永井荷風や森鷗外、夏目漱石らアンチ自然主義の文豪たちはこれに飽き飽きしていました。
そんな時世に現れたのが、谷崎潤一郎という文士であったのです。
代表的な作品の紹介
まずは文学界に招き入れられる契機となった、『刺青』の一文を紹介します。
丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清ひらせいの前を通りかかった時、彼はふと門口に待って居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足のこぼれて居るのに気がついた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持って映った。その女の足は、彼に取っては貴き肉の宝玉であった。拇指おやゆびから起って小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵きびすのまる味み、清洌な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを蹈みつける足であった。
谷崎潤一郎、『刺青・秘密』、新潮文庫、昭和44年、10ページ。
どうでしょうか。
既に流麗な美文とエロティシズムで知られる文豪の才覚が現れているのではないでしょうか。
何より、「鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持って映った。」という描写は、自然主義のなせる技巧ではありません。
代表作は他に、『痴人の愛』『春琴抄』『卍』『猫と庄造と二人のおんな』『蓼食う虫』『鍵』『瘋癲老人日記』『細雪』があります。(順次解説記事を作成します)
耽美主義とは
谷崎潤一郎は日本を代表する耽美(たんび)主義作家として知られています。
では耽美主義とはどのような文学のことを指すのかというと、
道徳的なしがらみの一切を廃して、美を最上の価値とする
考え方のことです。
特に谷崎の場合は、女性の美に主眼を置き、登場する男たちは揃いも揃って女に惚れ、堕落していくので悪魔主義とも呼ばれました。
他に耽美派に類される作品を書いた作家に、永井荷風、森鷗外、吉井勇がいます。
一部参考文献
次回予告
さて、今回の記事はここでおしまいです。
次回は、「【スキャンダラス】ヤバすぎる谷崎潤一郎の事件と文豪交友」ということで、
- 小間使いに手を出して出禁になる話
- 浮気した上に佐藤春夫に嫁返せと言って絶交する小田原事件
- 泉鏡花との鶏鍋事件
を記事にする予定です。
それではごきげんよう。
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