星は周る

随筆

本稿は野尻抱影『星は周る』の読後に日記に殴り書いた内容を文字起こししたものです。

2018年12月25日、私は教授のお誘いを賜って横浜の博物館を訪っていた。見るべきところは見て、教授はその後に予定がおありなのか、お急ぎの様子であったので早々に見送り、一方私はというと特段の用はなかったので、はっきりとした目的を持たずに桜木町駅の方へと向かうことにした。その時うっかり、男女の二人づれが跳梁跋扈する汽車道を通ってしまった。今日が何の日であるかも失念するほど、そういうものに無縁であった独りの男には相当こたえたらしく、かろうじて電車に乗り込みはするが、本来横浜駅の方面に行かねばならないところを、大船方面に乗り間違えるほど動揺は凄まじかった。結局、書くに値することをしないまま発車時刻が迫り、駅中の商店で適当な食事を拵えるとすぐに夜行列車に飛び乗った。B寝台の上にて、平安を取り戻す。しかしそれに要した時間は存外長かったらしく、都市明かりは既に遠ざかり、車窓の上辺には、巨漢の右肩が赤く輝いていた。感傷的にならざるを得なかった当時の私を、今思い出してみると気の毒というよりも滑稽なのであるが、それでも拙宅近くの農道を夜半に散歩する折、ベテルギウスがぎらぎら輝いているのを発見すると、気まずさを思い出して舌打ちをしてしまうのである。

いかにも人文的な解釈であるが、モーリス・アルヴァックスの『集合的記憶』によれば、人々の記憶のうち、本人の身体中に記憶されているものは寡少で、多くは物や空間、他人が記憶装置として働くという。そこから記憶を取り出して人々は喜怒哀楽の感情を発生させ、また思念を発達させていく。

某長編小説ではマドレーヌと紅茶から、思いがけず少年の頃の記憶が克明に蘇るという描写があるが、これはマドレーヌと紅茶に思い出が宿っていたのが、嗅覚と味覚への刺激が引き金となってそれらの記憶が想起された、というわけである。

私が折りにつけて思い出すベテルギウスへの感傷は、まさしくマドレーヌと紅茶のようなものであるが、星はそれらに比して幾分たちが悪いように思う。なぜならば、一般的な記憶装置とは、工夫のしようによっては距離を置くことも可能であるが、星に限っては、疎ましく思ったところで、一年に一度は否が応でも煌々と照っているのが目に入るからである。ゆえに、星々に何らかの記憶を委ねる者は、星が周る周期にしたがって悲しんだり、笑ったりせねばならない。野尻抱影は、娘を亡くしたときから、星の周期に合わせて毎年その季節がやってくるたびに、軒先に娘が遊んでいるのではないかと錯覚するという。その悲しさの程は、一介の大学生には容易に推し量れまいが、その情景を思い浮かべると涙を禁じ得ない。

時には初めて土星を見ておかしがったのを思い出して、愉快の感に浸ることもあろうが、かくも人を悲しませる星々を、私は多少の不気味さと憎らしさを持って見上げている。しかし、悲しみと共に生きねばならない人間にとって、星々は思念の泉として、創作の原動力として働き、悲しまなければ生きていけないということを、無言のままに教えてくれるように思われる。私にとってベテルギウスの輝きはそういう輝きである。

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