【論理学】対立としての「機能論」と「本質論」とは何なのか

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機能論と本質論とはどのようなものなのでしょうか。基礎論理学にはじまり、様々な学問分野で論じられるこの対概念について、知っておくことは損ではないはずです。この記事では、そもそも機能論と本質論とは何なのか、両論はどのように対立しているかについて、例を挙げつつ説明します。

機能と本質

――これは私が所属するゼミナールの教授が用いた秀逸な例を、そのまま引用するにすぎないのですが――機能と本質とはこのようなものにたとえられます。すなわち、あなたが誰かを好きになった場合です。どうしようもなく誰かを好きになってしまったとき、きっとあなたは熱烈にアプローチするか、もしくは叶わない夢であるとして、なかったことにしてしまうかもしれません。この個人に生起する感覚が何らかの作用をもたらして、何らかの行動にうつす、つまりは「機能」していることに着目するのが機能論と言えましょう。一方で、あなたが恋文を書こうが、茫然自失の日々を送ろうが、あなたが誰かを好きになったという「本質」は、どのように機能するかにかかわらず存在しているはずで、このことに着目し、限りなく実体を捉えようとする立場が本質論と言えましょう。

現象的な機能、実体的な本質

難解さが生じることを恐れずに説明を続けるとするならば、機能は「現象的」なもので、本質は「実体的」であると言えましょう。

現象とは

まず、「現象的」の現象とは何なのでしょうか。これは誰の論調の上で議論を展開するかによって大きく異なる――たとえば、カントのいう現象とフッサールのいう現象には乖離が意味内容に乖離があります――のですが、さしあたっては、「私たちの目に映って、頭のなかに思い浮かべられること」を「現象する」としておきましょう。

ここで思い浮かべてもらいたいのは、私たちに現象することは全てが事実ではないということです。肝試しに出かけて写真を撮ったとして、幽霊が写真のなかに「現象」したとしましょう。しかしこれは、ほとんどの場合において――なかには本当に幽霊の場合もあるかもしれませんが――、私たちの錯覚であったり、幽霊ではない何かが偶然に幽霊のような形で映り込んでいたりしただけでしょう。

このように現象は実際にどうあるかはあまり関係がありませんが、しかし私たちは現象したことについては実際にあると認めたうえで、行動を決定したり、何らかの感情を生起させたりします。つまり、現象が私たちのあいだで作用し、すなわち機能しているのです。このことから、機能論は現象的なものであると言えます。

実体とは

実体は、私たちに現象するもの(目にうつるもの)とは無関係に存在しています。したがって、私たちがそれぞれの関心命題について論じるときに、私たちの目にうつり、作用し、実際に機能している関係性に着目するならば、それは機能論的に論じることになりますが、これだけに偏重するようでは本当に大切な本質については見逃してしまうかもしれません。関心の対象を本当の意味で理解できる可能性を持っているのが、物事の核心を見究めていこうとする実体的な本質論です。

一方で本質論は、目に見えないことをも議論の対象とし、哲学的な要素を多分に含んでくることにもなりますので、一般に理解されやすい内容とはなりにくいですが、学究において不可欠な過程でもあります。

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