現代人の個性をめぐる葛藤

研究成果

はじめに

現代に生きる日本人は、じぶんは一体何者であるのかを、絶えず自問し、何らかの答えを擬制的に見出せるときもあろうが、場合によっては個性的な何者かになろうと演じてみせたり、何者でもないじぶんに絶望を憶えたり、果てにはまだ見ぬじぶんを発見しにインドにまで行ったりする。なぜ、このように悩むのであろうか。本稿では、現代人がはなはだしく個性に執着している(もしくは執着するように仕向けられている)現状を分析し、これからの社会を生きる私たちは、いかにして個性の問題と付き合っていけばよいのかを明らかにする。

楽曲傾向と個性

個性問題が歴史貫通的に、人間のあいだに共有されてきたかといえばそうではない。ごく最近になって、人々は個性とのあいだに欺瞞的で殺伐とした関係を取り結ぶようになった。そのことは、大衆が共感を憶えるとともに広く受け入れてきた音楽に、端的に表れている。SMAPによる『世界に一つだけの花』は、一人ひとりがみな違っていて、No.1になる必要はなくそれぞれの持ち味を認めあおうという意味内容の楽曲であり、リリースされた2003年末の紅白歌合戦でも歌われた楽曲である。

(前略)

そうさ僕らは

世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

(中略)

小さい花や大きな花

一つとして同じものはないから

NO.1にならなくてもいい

もともと特別なOnly One

(後略)

一番になるのではなく、それぞれが持つ種を育て上げて花を咲かせることだけに一生懸命になるように優しく呼びかけるこの歌は、個性というものが、おのれの生命欲求と分かちがたく結びついていることに気付きつつある現代人に、ある種の慰めの歌として機能し、紅白歌合戦で歌われるに至るほどの人気を得た。

しかしながら、聴くものにとっては必ずしも「そのままの存在でいい」というように受け取られるわけではなく、次のような受け取られ方もまた存在していると指摘された。

見方を変えれば、どこにも「特別なOnly one」を見出せない自分には価値がないかのように思わせる煽りの歌ともいえます。[土井2017,37頁]

個性のありようが人を悩ませている状況を鑑みるに、土井の指摘は少なからず正鵠を得た内容である。そして、しばらくの時が経過し、個性に対する人々の関心は、より切迫したものとして、殺伐とした関係として、立ち現れる。

(前略)

似たような服を着て

似たような表情で…

群れの中に紛れるように

歩いてる(疑わずに)

誰かと違うことに

何をためらうのだろう

(中略)

夢をみることは時には孤独にもなるよ

誰もいない道を進むんだ

この世界は群れていても始まらない

(後略)

群衆のなかに埋もれた自分らしさを取り戻せと、没個性な者たちを奮い立たせるこの歌は、欅坂46の『サイレントマジョリティー』である。リリース年の2018年には紅白歌合戦にて披露された。だがそこには個人が持つオリジナリティをゆっくりと育むように、優しく言い聞かせる素振りはない。いち早く発揮すべきものとして、個性はある。もはや個性の発揚は規範となって、私たちがいち早く達成しなければならない一指標として君臨する。

『世界に一つだけの花』に歌われる「Only one」には、地球上に生命が誕生していらい潜在的に平等分配されている、種としての個性――すなわち誰もが生まれながらにして持っている個性――への言及が主題的であったが、『サイレントマジョリティー』ではもっぱら、あらかじめ与えられ、じぶんのものとして内在化された個性に関して、その発揮への言及である。この楽曲傾向は、日本以外の楽曲にも、とりわけK-POPにもよく見出されるが、その定性的な分析は他に譲るとして、本稿の前提とする現代人の個性観について、より詳細に見ていこう。

自己実現と個性

そもそも私たちは個性獲得に駆り立てられているのだろうかという疑問があるかもしれない。それはいくつかの例証によって、より実感的に理解される。私たちが暮らす社会では、たびたび「キャラが立」っているか、それとも反対に没個性な人格であるかが、善悪の規範として、意識の有無を問わずに私たちの行動を規定している。

学校という空間ではそのきらいが顕著である。教室内で善とされる人格は、つまり、そうなるべきであって、喜んで受け入れられる人格は、どこか普通ではない特徴――たとえば、頭が良い、ウィットに富む、手先が器用、運動能力が高い、顔が良い、などなどの特徴――を持っていて、それゆえに耳目を集めるような存在である。対照的に、悪とされる人格は、つまり、あまり好ましくないとして蔑ろにされる人格は、特段の語るべき特徴を持たないか、あるいは実際にそうであるかは関係なく好ましくないとされるがゆえに、表立って出てこないような特徴を持つような存在である。この善悪の度量にしたがって、俗にいうスクールカーストは編成される。

もう一つごく卑近な例を挙げるとするならば、SNSはその善悪の程度が「いいね」ないし「フォロワー数」という可視的な標識によって、ユーザーを序列化する。この社会では、3いいねの投稿よりも1万いいねの投稿が尊ばれ、30人のフォロワー数よりも3万人のフォロワー数を持つ者が尊ばれる。序列の編成は、概ね学校空間の例示と同様の法則にしたがって行われる。つまり、普通ではない一面を持つ者は衆目を集めて、そうではない、いくらでも代わりが聞くような有象無象に人は集らない。

この善悪の規範が立ちはだかるかぎり、行動の規定は常に、より特徴的に、劇的な方向へと補正されることになる。すなわち、個性に飢えているのである。

これほどまでに全市民が個性に飢えたのは前代未聞である。縄文時代の狩人は狩猟に必要な能力を求めはしたが、確固たる個人としてその能力を欲したのではない。平安時代や江戸時代の平民にとっても、関心は常に平和に日々を暮らせるか、明日の衣食住に困らないか、であって、決して歌舞伎役者になって何代目市川團十郎を襲名したいであったり、浮世絵作家として名を馳せたいであったりという願望は出てこなかったであろう。もっとも、職業の自由選択は明治以来の所産であるので、あらかじめ用意された職業以外において自己を確立しようという発想は、出てくるはずもなかった。

明治時代よりあと、夏目漱石をはじめとする文化人の尽力により、日本にも近代的個人主義が輸入される。だが、それは一部の知識人や有産階級に親しまれるにとどまったのであろう、広く庶民のあいだに伝播し、日本人に本格的に使いこなされるようになるのは、漱石の時代からしばらくくだり、戦後、いや、今でさえ完璧とはいえないかもしれない。

が、紛れもない転機となったのは、高度経済成長の右肩上がりの時分、物質的な充足が次なる欲求段階へと、すなわちマズローの欲求五段階説でいうところの、生理的欲求や安全欲求の次元から、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求の次元へと昇格させたことである。自己実現とは、「自己の内面的欲求を社会生活において実現」することである。上に述べた各々が所属する社会からの要請――特徴ある個であらねばならないという要請――にしたがって、自己の内面的欲求は構成され、これにしたがって自己の実現は図られる。ゆえに、社会の一定の成熟が各人に自己の実現を要請し、主観的には、自己実現しなければならないという意識として現象し、今日の個性と私たちの関係ができあがったのである。しかるに、この関係性が少々歪さをおびて、ときおり私たちの生きづらさを原因するようになった。ではいかにして個性とうまく付き合っていくのが良いだろうか、という問いが本稿の主題とすることは既に述べたとおりである。

社会的な、あるいは内閉的な個性

ここで一つ注目したいのは、メディアを通じて私たちに現象する個性が、往々にして何か私たちがもともと持っていてまだ見つけられていないか、もしくは既に見つけたものの何らかの外圧によって押し込められているものとして現れる点である。

土井はマスメディアが我々にもたらした個性観について次のように指摘した。

彼ら(テレビ制作者――引用者)はいわゆるプロフェッショナル性よりも素人らしさを出演者に期待し、演技ではない持ち前のパーソナリティを評するためにこのような表現を用います。だから、「天然ボケ」のように生来的な持ち味のある人間こそが、もっとも「キャラがたつ」人物ということで珍重されるのです。(中略)日常生活の文脈でも、最近の若者たちはこのような意味で「キャラがたつ」という表現を用います。彼らが価値を見出すのは、あくまで素のままの存在感なのです。[同,25頁]

このアナロジーから、当然のこととして、若者たちは自分らしさを発見するために、みずからの内面その奥深くへと分け入って行くこととなる。ここで、個性を先天的に獲得されて、自己に内部化された性質として捉えるか、後天的に他者との関わりを通じて獲得される性質として捉えるかの対立が生まれる。前者を「内閉的個性」、後者を「社会的個性」と呼ぶ。

両者を名付けた土井によれば、後者の相対的に形成される個性こそが人間の本来的な個性だという。このことについては、後ほど詳細な検討を行なっていくが、ひとまず説明を続けよう。私たちは少なからず何らかの社会への所属と離脱を繰り返すことになる。第一の所属は家族であり、しばらくの凪のような暮らしを経たのちに、幼稚園、学校、学校のなかでもクラブや委員会などの小さな社会、そして、最終的には保護下から離れて、無数の社会に入ったり、出たりを連続的に行う。その所属と離脱の過程で、他者を他者として認識し、また他者と自分との差異を認識することを通じて、相対的に形成されるのが、「社会的個性」である。

付け加えておきたいのは、髪の色などに代表されるその人の容姿は、一見してその人が生来的に持っている内なる性質のようにも思われるが、実際的な機能に着目すると、もっぱら後天的に獲得された社会的な個性である。というのも、黒髪の人々のみによって構成された社会では、黒髪であること自体は個別性として機能せず、他方で茶髪の人々のみによって構成された社会に黒髪の人が混じった場合、黒髪は個人を識別するための個性として機能するからである。つまり、身体的特徴は外部環境によって個性として認識されることもあれば、されないこともある、社会的な個別性である。

一方で、これとは異なる個性のあり方にも注目しなければならない。子どもたちは、しばしば自己の深淵に自分らしさを夢想する。自己の奥深くに分け入った先に、それぞれの本当のじぶんを発見する。この実現こそが、彼らにとっての自分らしさの発揚であり、そこには他者は介在しない、ように思われる。目下よく見られるこのような個性の捉え方が、「内閉的個性」である。

両概念の再検討

土井は本来的な個性として前者を置いたわけであるが、この理解のみでは本質的ではない。なぜならば、個性そのものの形態は、「社会的個性」と、「内閉的個性」の統一体であるからに他ならない。ただし、そこには「社会的個性」への偏重と「内閉的個性」の誤謬的観測を含むことも否定できまい。この点について詳細に言及する必要がある。

まず、「社会的個性」に対置される「内閉的個性」が、一切の社会性を排するものであるかといえば、そうではない。若者はそれぞれの内なる本性を、たいていの場合、何らかの職業によって表現するが、その職業を知るに至る過程で、またみずからの本性として同定するに至る過程で、社会的である。感化的な職業者から影響を受けて、はじめて若者はみずからの本性を同定(ほとんどの場合においては、あるいは錯視)できる。古代ギリシアにYouTuberを夢見る若者はいないのと同様に、現代にソフィストを志す若者もいないという例証は、簡潔に、本性同定の過程が社会の影響を受けざるを得ないことを明らかにし、そして同時に、その同定作業が、ほとんどの場合において、少年たちの勘違いに始まることも明らかにする。

「内閉的個性」の社会的な方向への収斂が確認された以上、それもまた、決して個人の内側にのみ存在する幻想ではなく、総労働に占める割合としてはわずかでありながらも、社会にとり、私たちにとり、観念の有意味性をほのめかす。実際に、ある子どもにとって内閉的に見出されたようにも思われた個性が、将来にみずからの職業となって、念願を果たす例は挙げるまでもないだろう。理想的な自己実現の一形態である。

しかし、理想はあくまで理想なのであり、万人に再現されるわけではない。むしろ、社会の大多数において、かつて内閉的なものとして見出された個性が、そのまま職業として実現される例は少ない。夢想したじぶんの姿があまりにも見当違いな場合は、これまで見えていなかった、他者との摩擦という形をとって現象し、この実現を阻害する。内閉的な個性実現の頓挫は、彼らにとって、自分らしさの喪失である。何らかの障害によって往年の夢が絶たれたとき、自分らしさが外的要因によって奪われたに同義である。以降、彼らは自分らしさを求めて、内的なものとしてそれを認める限りにおいて、無限に彷徨する。

これまで、内閉的な個性の二つの作用過程、すなわち、子どもが自己の内側に見出した個性が将来の職業として実現される場合と、内側に見誤った個性を発見し、最終的には未達成のままに終わる場合があり、後者が多数となっている点に着目してきた。前者の場合において個性の実態を捉えようとすると、それは「社会的個性」と「内閉的個性」の統一と形容できるが、マジョリティーである後者の場合では、それは単なる、「内閉的個性」の誤謬的観測に終始してしまう。言い換えれば、ごくわずかな例を除けば、内閉的な個は意味を持たず、それどころか現代人を苦しめる悪因にもなり得る。それゆえに、大多数の人々は、社会的に獲得する個性――社会生活に出会う必要へのレスポンスとしての個性――に準拠して、自己実現の方法を探っていくことになる。

「社会的個性」の負の側面

従前に述べたように、内閉的であれ、個性の形態は少なからず社会から影響を受けないわけにはいかず、その意味において、「社会的個性」は広大無辺であり、全ての個性表現の手法について、人間生活にもたらす功罪についての価値判断を試みることは困難である。よって、ここでは人間生活の一側面、すなわち賃労働と余暇活動の二面で捉えた場合の後者にあたる部分、余暇活動、言い換えると消費活動にあたる部分に取り出して、検討していく。

商品の消費を手段とする個性表現が私たちを生きづらくさせる一要因をなすことの既往研究(浅倉,1995)を見ていこう。

近代的個人が誕生した19世紀の西欧諸国における、ある二つの特徴的な行動様式、すなわちスノビズムとダンディズムに注目すると、そこには商品による盛んな自己表現の形式が、対照をなしてせめぎあっていた。スノビズムとは、「上品ぶって、教養があるようなふりをする生活態度」をさす。当時の上流階級であった文化人、貴族、知識人をまのあたりにした中産階級は、資本家ほどではないにせよ、その貯蓄された賃金を商品購入にもちいて、上流階級を模倣する。彼らの特徴を、朝倉は次のように指摘する。

第一に、スノッブたちは自分自身のアイデンティティを〈内面〉にではなく、他者の視線において見出す。彼らは、具体的に何者かであろうとするときに、必ず他者の視線へと自分を外化=他有化してしまわざるをえない。他方、第二に、まさにそのことの反射的効果として、他有化されざる〈ほんとうの私〉が、他者の視線のおよばぬ場所に想定される。だがそれは、他者の視線において是認を受け取るまで、確固とした内容をもちえず、未規定で潜在的なものにすぎない。したがってスノッブは、抽象的で不確かな〈ほんとうの自分〉をなにか具体的で確かなものとしてアイデンティファイしようとするその瞬間、それを他有化し、逆にその〈ほんとう〉を損なってしまうのである。[浅倉1995,113-114頁]

近くにいる優位者に「準拠」し、それに倣うことによってより高尚な自己を表現しようとするスノッブたちは、他人との絶えざる「比較」によってのみ、自己を発見しえる。しかし、それは可能であったとしても刹那的に、である。他者存在が変わり続ける以上、それを存在の条件とするスノッブもまた、絶えず商品の消費を通して――たとえば、上流階級のあいだにあるモードが生じたのであればそれに、何かしらの耐久消費財の所有が流行したのであればそれに倣うという風に――変わり続ける必要がある。

他方ダンディはどうであろうか。ダンディズムとは、「イギリスの青年紳士のあいだに流行した伊達(だて)好みの気風」をさし、日本では単に、粋人をさしてダンディと呼ぶことも多い。粋を全行動の指針とする彼らは、俗流のありとあらゆる既に名付けられた様式を疎ましがる。

(ダンディたちは――引用者)第一に、彼らの自己は、すべての規定を否定するという点においてのみ規定されるような徹底した否定態であり、いわば純粋な空虚にまで還元されてしまっている。ダンディであることは無からの生成でなければならないのだ。第二に、この空虚がポジティヴな規定態へと転倒されえるのは、彼らスノッブでないことに対する(スノッブたちの)是認=賞賛を獲得するかぎりにおいてであり、それ以外の積極的な根拠をどこにも持たない。だから彼らはいわばスノッブ以上にスノッブなのであり、自分たちが熱烈に反逆する当のメカニズムに依存することなしには自己を維持することができないのである。[浅倉1995,116-117頁]

他者たちが消費活動を通じて連続的に姿態を作り上げるとき、人と人のあいだの、誰も位置を占めなかった、まだ名前のついていない様式を発見し、ダンディは腰を据えるのであるが、真似をし始める他者が現れるやいなや、急いで立ち去らねばならない。彼らは虚無に生き続ける。スノッブたちが馴れ合う数々の様式の、補集合にあたる虚無は、部分集合がひっきりなしに変化する以上、同様に時事刻々と移ろいゆく。したがって、虚無からの逸脱を一切許されない者たちは、終始他者に目を光らせておかねばならない。すなわち、自己を他者と比較し続けなければならない。

一見して、対極をなす二つの行動様式が、その実他者との「比較」においてかろうじて像を結ぶ個性表現の手法である点で、そして、さらには商品の消費活動を媒介している点で共通していた。

おわりに

本稿では十分な考察に及ばない箇所もあるが、以上のことから帰結する人と個性の関係について、まとめて締めくくりたい。

本稿が主題としたことは主として二つある。一つは土井がもちいた社会的あるいは内閉的な個性の概念の、解体再構築であり、もう一つは、そこから明らかになった「社会的個性」の、一側面を展開する既往研究の考察である。土井説によれば、個性の社会的に構成される側面の軽薄化と、誤謬に満ちた子どもたちの、内閉的な個性の強まりこそが若者世代の生きづらさを原因する。しかし、個体の秘める能力差に由来する個性の伸長と、その先の自己実現は、明らかに内閉的な個性の知覚、信頼、涵養によって成立し、いくらかの人にとっては、確かに何者かという形容を与えている。一方で、社会的に獲得される個性を手放しに称賛するわけにはいかない。他者への準拠と、他者ならざる者(空虚)への準拠を自己実現の条件とする、スノッブとダンディは、その条件達成のために共通して、自己と他者との比較と、商品を媒介する消費活動を通じた準拠を絶えず行わなければならない。

私たちはこれらの分析によって、どのような訓戒を得られるであろうか。次の2つが挙げられる。

一、個性は先天的に生まれ持ったものだけで構成されるのではなく、社会的な要請にしたがってじぶんを変えることもできる。(自己に内在しているかもしれない際立った能力を前もって発見するのは容易ではない、これを自己実現の方途として積極的に活用していこうとするのは避けるのが良い。) 

二、他者との比較による、なおかつ商品を媒介する自己表象はその際限のなさから私たちを疲れさせるので、避けると楽に生きられる。

もっぱら消費活動を通じた社会的な個性の実現について論じたが、当然のことながら、生産活動の場、すなわち労働の場面においても、自己実現の問題と連絡している。今日では、その範囲までを論じるには及ばなかったが、引き続き論究を行っていきたい。

参考文献

浅野智彦.”近代的自我の系譜学1――ピューリタニズム・スノビズム・ダンディズム――”.岩波講座現代社会学第2巻 自我・主体・アイデンティティ.1995,107-119頁.

「スノビズム」「ダンディズム」「個性」. 日本大事典刊行会.『日本国語大辞典』第一版第一刷.小学館.1976.

土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』岩波書店,2004.

山田良治『知識労働と余暇活動』日本経済評論社.2018.

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