本稿は、1969年5月13日東大900番教室にて行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論を、もっぱら学術に用立てるために、口語から文語になおしたものである。
ただし、ところどころ難解な表現が顔を出し、この資料だけでは意味が判然としないであろうから、有識者諸氏の解釈が盛り込まれた『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を視聴のうえで、補助的に使用されることを望む。数カ所聞き取りが困難な箇所もあったゆえ、間違いがあるかもしれないから、その点はご了承願う。
目次
冒頭スピーチ
三島:私を壇上に立たせるのは反動的だという意見があったそうで、まあ反動が、反動なのは不思議がございませんので、立たせていただきましたが、私は男子門を出づれば七人の敵ありというんで、今日は7人じゃきかないようで、たいへん気概を持ってまいりました。あの日の午前中、諸君のいわゆる体制側の人とちょっと会っておりました。それほど偉い人ではないんですが、優秀なる体制側の、、、この人がいうには「そうも困ったものです、あんなキチガイみたいな連中が騒いで、こういうものは馬鹿馬鹿しいものでございますねっていうんで、私はちょっと嫌な気がしたんで、これは諸君に阿諛(相手の気に入られようとへつらうこと)するわけではない、キチガイが騒いで困るというならキチガイ病院にいれればすむんで、キチガイというのを相手にして政府が騒ぐなんてそっちの方がみっともないじゃないか、大体キチガイというものは大事に看護して、薬を与えて、この精神病の薬も発達しておりますから、大事に檻に入れて看護すべきもので、キチガイを怪我をさせたり、気狂いを殺したりするのは、非常に非人道的で、けしからんと私は思います。私はやはり、諸君をキチガイと思いませんので、やはりこうして出てまいりましてもとにかく言葉というものはまだここで何程かの有効性があるかもしれない、ないかもしれない、まあ試しにきてみようぐらいな気持ちをもっております。
その時私は、政府当局者の顔を見ていてふと思ったのですが、4月28日の午前中に彼らの目の中には何ら不安はありませんでした。これは私も非常に敬服したんですが、もし私が全学連だったらどう感じるだろうか、私はモーリヤックの書いたテレーズ・デケイルゥという小説を思い出すんです、あの中に亭主を毒飲まして殺そうとするテレーズという女の話が出てまいります。なんだって亭主を毒殺しようとしたか、愛してなかったのか、これもはっきり言えない、憎んでいたのか、これもはっきり言えない、はっきり言えないんだけれどもどうしても亭主に毒を守りたかった、そして、その心理をモーリヤックが色々と追求しているんですが、最後にテレーズは亭主の目の中に、不安が見たかったからだとというのであります。諸君もとにかく日本の権力構造、体制の目の中に不安をみたいに違いない、私も実はみたい、別の方向からみたいんだ、私は安心している人間が嫌いなんで、実はこんなところで私が無事に、こんなことしていられるという状況はあんまり好きじゃない。仄聞(噂などを小耳に挟むこと)しますところによりますと、これはなんか100円以上のカンパを出して集まっているそうですが、私は図らずも諸君のカンパの資金集めに協力していることになる、私はこういう政治的状況は好きじゃない、できればそのカンパの半分をもらって私の楯の会にとっておきたい。私はつい最近もある自民党の政治家から頼まれたて暴力反対決議というのをやるから、署名をしてくれと、私は生まれてから一度も暴力に反対したことがないから署名はできませんと返事をした、私は右だろうが左だろうが暴力に反対したことなんか一度もない、これは私が暴力というものの効果というものが現在非常にアイロニカルな構造を持っているから、ただ、無限定、あるいは無前提に暴力否定という考えは、たまたま共産党の戦略に乗るだけだと考えているんで、つかないです、私は東大問題を前方を見まして、自民党と共産党が非常に接点になる時点を見まして、これなるかな、じつに恐ろしい世の中だなと思った、私はあの時東大問題全体を見て暴力というものに対して恐怖を感じたとか暴力はいかんということは言ったつもりもないし、私の書いたもの全部読んでいただくとわかるんです、どこにも書いてない。私が一番恐ろしいと思ったのは、秩父宮ラグビー場の、ああいう集会のあった後あたりで、入試復活という動きが非常に見えてきた。その時に自民党も共産党も入試復活という線で折り合いそうになった、そして大体学生の厭戦思想に漬け込んで、とにかくここらで手を打とうじゃないかという気分が濃厚になった、この気分は日本全国に瀰漫(風潮などが広がること)してる、イデオロギーなんかどうでもいいじゃないか、筋や論理はどうでもいいじゃなか、とにかく秩序が大切である。我々の生きているこの社会のただ当面の秩序が大切である。そのために警察があるんだ。警察はその当面の秩序を維持すればいいんだし、その当面の秩序が維持されさえすれば、自民党と共産党もある時手をにぎったっていいんだと、私は今そこの入り口で近代ゴリラとかという絵が書いてあったが、そういう点じゃプリミティブな人間だから筋が立たないところでそういうことやられると気持ちが悪い。私は、自民党はもっとは反動的であってほしいし、共産党はもっと暴力的であってほしいのに、どっちもモタモタしている、この点が、私がイライラしている1番の原因です、私は全学連の諸君の中でどの派と戦おうとか、どの派を相手にしようなんていうことはまだわからないんで、私は大きなこと方々に書いたり言ったりしておいりますが、人間やるときにはやらなきゃならんと思ってます。私は、このだいたいに合法的に人間を殺すということが、あんまり好きじゃないんです。私は死刑廃止論者では必ずしもありませんけれども、合法的に人間を殺すという立場に立って、自分がやりたいとは思っていない。私は諸君から見りゃ体制側の人間かもしれないけれども、合法的に暴徒を鎮圧し、暴徒に対して射撃するのは自衛隊の任務である。私は自衛隊の一員じゃありません。自衛隊には大変お世話になって、尊敬しているけれども、私は一人の民間人であります。私が行動を起こすときは、結局諸君とおんなじ非合法でやるほかないんだ。非合法で、決闘の思想において、人をやればそれは殺人犯だから、そうなったら自分もお巡りさんに捕まらないうちに、自決でもなんでもして、死にたいと思うんです。しかしそういう時期がいつくるかわからないから、そういう時期に合わせて身体を鍛錬して、近代ゴリラとして、立派なゴリラになりたい、そういう気持ちでいるわけです。それで今日たまたま私がここへ出てくる前にちょっとお話がありましたが、「お前とは接点がある」というお話があった。そんなふうな接点があるのかと言いますと、「お前も暴力というものにおいて、つまり全学連諸氏が思想を通じ、この思想を通じて、肉体からさらに暴力というものを論理的につなげていると、そのことについてはお前も認めるであろう」その通りだと申しました。「その接点においてお前とはどこか話があるとこがあるかもしれんじゃないか」というんで、私はここへ来てるらしい。その政治的思想においては、私と諸君とは正反対だということになってる。まさに正反対でありましょうが、ただ私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。これは具体的に例を挙げれば、色んな立派な先生方がいるんで、そういう先生方の顔を見るのが私は嫌でたまらなかった。これは自分に知識や思想がないせいかもしれないが、とにかく東大という学校全体に、そういう私はいつも匂いを嗅ぎつけていたから、全学連の諸君のやったことの全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人のうぬぼれというものの、鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。そして私はそういうものの反知性主義というものは、実際知性の極致からくるものであるか、あるいは反知性主義というものは一番低い知性からくるものであるか、この辺がまだよくわからない。もし丸山真男先生が肌ぬぎになって反知性主義をとなえれば、これは世間を納得させるんでしょうけれども、丸山先生はいつまで立っても知性主義の立場に立っていらっしゃるんで、殴られちゃった。そして、反知性主義というものは一体人間の精神のどういうところから出てきて、どういう人間が反知性主義というものの本当の資格者であるのか。これが私には久しい間、疑問でありました
他者との関係性について
学生A:残念ながら僕らの方の提起するところの暴力というものは、単にそういう感覚的な原点だけに頼ってるんではないということなんです。つまりそれは、確かにさっき戦後知識人の問題として、さっき三島先生が、その、三島先生が、……あの、ここで三島先生という言葉を思わず使っちゃったのは、若干問題があるわけですけれど、しかしながら、学校の教師よりは少なくとも、現実にそこら変にウロウロしている東大の教師よりは三島さんの方が僕は先生と呼ぶに値するだろうと、まあそれで僕は使ったということを評価していただきたい。で、まあそういうものに対する三島さんの批判というものは実に当たっていると思います。しかしながらまだこれだけでは……
三島さんにお聞きしたいのは、人間にとって他人というものはどういうものであるのか、そのときにですね、さっき近代ゴリラと自分は言ってるわけです、しかしながら僕らにとってゴリラというのはやっぱり怖いわけですよ、体はでっかいし、けむくじゃらだし、まあここで三島さんをやじっているわけじゃありませんけれどもね、一つのまあ暴力の表現として自己は不安感に落とされる。で、だからそのような存在をただ志向することだけがですね、果たして、まあ僕らの側からすれば政治的に有効であるか、それともまた社会的に有効であるかということになるわけですけれども、三島先生が、三島さんが、そうした問題的を抱えてるのは他人の問題をどう考えていらっしゃるのか。たとえば、その相手を殺すということは非常に簡単です。しかしながら自己が殺されるっていう状態もやっぱり考えてみないとならない。そうした場合において自己は暴力にかける最終極限状態においても暴力に欠けるといった場合、他人というものはどこに置かれるのか、それを三島さんにお聞きしたいと思います。
三島:私の大嫌いなサルトルが『存在と無』の中で言っておりますけれども、一番猥褻なものは何かと言ってですな、一番猥褻なものっていうのは縛られた女の体だと言ってるんです。これはサルトルがあの『存在と無』の中で、自と他の関係を非常に分析しておりますけれども、エロティシズムは他者に対してしか発動しないですね、今暴力の話が出ましたが、暴力とエロティシズムってのは深いとこで非常に関係があるんで、他者に対してしか発現しないのが本来のエロティシズムの姿です。ところがその他者というものは意志を持った主体であると、これはエロティシズムにとっちゃ非常に邪魔者になるんです。ですからとにかく意思を持った主体を愛するという形では、男女平等というのは一つの矛盾でありまして、お互いの意思によって愛するというのは、ホントは愛のエロティシズムの形じゃない、相手が意思を封鎖されてる相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が一番猥褻で、一番エロティシズムに訴えるんであります。これが人間というものが人間に対して持っている関係の、私は根源的なもんじゃないかと思います。例えば佐藤首相が縛られた状態で、ここにいるとすると、別にエロティックじゃないけれども、少なくともそれに暴力を行使するということは面白くないというのは諸君の中に持ってる状況だろうと思う。佐藤内閣というものが諸君に対して、攻撃的であると諸君は理解する。そしてその攻撃意思を相手の主体的意思と既に認める。この認めるところに諸君が他者というものを非エロティック的に、そして、主体的に把握しているという関係が生じるんじゃないかと思います、しかしそれはですね人間関係の根本的な自と他の対立というものではないんだと、私は理解するんです、というのは、他者というものは我々にとっては本来どうにでも変形されうるような、このオブジェであるべきだ、これが自っていうものにとっての他者がそうあるべき状態、あるいはそういう状態であるべき他者というものを、我々は欲求しているんです。しかるに、相手が思うようにならんと、そこに我々と他者との関係が難しくなってくる。非エロティック的になるんです。そして、非エロティック的になってくると、ホントは暴力というものが発生するのはホントはおかしいんだ。これは暴力という形じゃなくて、諸君が言うように、まあ闘争と言う美しい言葉がありますけれども、暴力じゃなくてこれは既に対決の論理、決闘の論理に立っているんだと思われる。それで私は学生暴力というものをただ暴力と考えないのはそのためなんであります。また向こう側から警察権力から諸君を見た場合も、諸君というものがただなんらの主体の意思のないさっきのキチガイだと思えば、これに対して暴力をふるう余地はない、そう言いながらもやっぱり暴力ふるうときは、諸君の中に主体を認めてるからであります。で、こういうような状態を作る、こういう状況は一つの自と他の関係を無理矢理に相手に対して主体を認めようとする。相手を物体視しないという関係を作る、これは私は関係に入っていく、自と他が関係に入っていく、ただ唯一の方法じゃないかと思うんです。というのはエロティシズムというものはある意味で関係じゃないんだ、これは全くのサルトルのいういわゆる猥褻感でありまして、オブジェから触発される性欲であります。ところが自と他が関係に入ってくってことはそこに既に対立があり、戦いがあるということをもうすなわち意味するんだと考えるんです。それで、今の他者との関わり合いということですが、私も他者というものをどうしても欲しくなったんです。私は小説家としてエロティックにのみ世界と関わろうと非常に願っていたんです。そして私の初期の小説はエロティックのみ社会に関わっていて、大江健三郎とよく似てたと思うんですが、そのうちにだんだんそういうものが嫌になって、どうしても一つの関係に入りたくなってったんです。それが当然対立を生むことになって、対立が他者というもののイリュージョンを作って行かざるを得ない。それで私は、とにかく共産主義というものを敵にすることを決めたんです。ですからこれから先も、もうどうしようもないので、あくまでも共産主義を敵として戦うと、で、これは主体性ある他者というふうに考えてるわけです。
持続について
学生B:ここで一つの問題的としてのみ、ぼくはそれ以上展開できないから、自然対人間の関係というものをここで、この議論の中に、持ち込んだ方がいいと思う、というのは、三島氏のいわれる自然というのは一体何かっていうと、何か僕の聞いた限りでは、人間の肉体というかその人間の肉体を機能させる意思というかそこまでしか見ていないと、そういうもんじゃなくて、僕は実際にこう、非人間的な自然というものが、僕たちの目の前に存在しているはずだと、都会に住んでる限り、そんなのは見えないかもしれないけれども、それが実際に都会の中にも存在してるはずだと、で、最終的にものをいうのは、そういった非人間的な自然であると、その非人間的な自然を僕たちがどこまで機能させうるか、そこに僕たちの力がかかってると、力がどこまで発揮されるかというのがかかってると思う。
三島:ちょっと失礼しますね、今の話では自然という言葉が、いくつか多義的に使われている感じがするんです、一つは和歌山だの長野県にある自然、一つは東京にある丸ビルとか霞ヶ関ビルっていう自然です。またあるいは機動隊の棍棒という自然です。それから、あるいは生産行為の場としての自然です。ところが今は、ものを通して生産行為の場に、到達しなければならないということになりますと、機動隊のこん棒を通して生産行為の場に到達することも可能なように思われる。そうすると機動隊は農家出身でありますから、機動隊の棍棒に殴られればあのものの感覚を通して、彼らの中にあるところの、日本の農村共同体的な精神から自然に到達することができるんじゃありませんか。
芥:だから自然というものはわからねえんだよ全然
三島:誰がわからん
芥「だから」
三島:誰だ、わからんというのは、君のは日本語でね主郭が省略されて、「いい日本語」なんだけども、誰がわからんっつってんの?君がわからん?俺がわからん?
芥:だからあなたが使った使い方としてはわかるけれどもね、そう使うことによって、なんら物事ははっきりせんだろうという、あなたがデマゴーゴス(煽動家)になってしまう点のおいてですね。
三島:なるほど、なるほど。
例えばこの机というものは、これはつまらん何か汚いデスクだが、これは東大の中で一定の先生が一定の講義をやるためにここにおいてあるんです。ところが諸君はこれの用途を変更することができる、バリケードにしてしまう。この机は夢にも思わなかったことですが、バリケードにされてしまう、そうすると机の用途の変更ですが、これは机の生産の元々の用途目的とは関係がない、それは戦闘目的に使われるんですね、そして、ものが生産関係から切り離されて、戦闘目的に使われて、そういうものによって、諸君は初めてものに目覚めるという時代に生きてる、それはなぜか、諸君自体の存在も、生産関係から切り離されてるからじゃないですか、そして、それによって諸君は生産関係の根本に、労働対象としての自然に到達しようとするんじゃないですか。その動きが諸君がやってる暴力の本源的衝動じゃないですか。
芥:俺ってそういう場合、関係づけられてない事物っておかないと、やっぱり曖昧になってきちゃうんじゃないですか?
三島:何が?
芥:だから、大学という一つの生活形態の中で、机は机であるけれど、大学が壊れたら机でもなんでもないわけで、それは一つの事物ですよね。
三島:ああ物だね、そうですね。
芥:それらの事物に対して我々が一方的に関係づけた場合、身の回りの全てが武器になりうるし、それは何にでもなりうるわけです。
三島:なりうるわけですね。
芥:むしろそこの関係の逆転に革命がおそらくあるんだろうと、その時初めて空間が生まれるってことですよね。
三島:うん、うん。
芥:物書きの場合、その場合、文字と机が同じ重さを持って作品作らないと、一向にレシ(仏で物語)になったりロマン(仏で小説)になったりしてしまうんで、
三島:そういうことだ
芥:三島さんは敗退してしまったということになるんですけれど、
三島:ああ、まだ敗退してないぞ
芥:僕にはそう思えますけれど。
三島:しかしやっぱり物書きはそういう物というものをね、作品の中へ作って行かなきゃならんですね、実際は、物書きの仕事としてはね、
芥:実際は、ええ、
三島:しかしこれは生産とは直接関係ないことは確かだな、
芥:そうです、
三島:ああ、
芥:最初から生産から疎外されていたということ自体、一つの実存主義の流れのアレですからね、僕らには関係ないですけれども、
三島:今空間って問題出てきましたね、その空間、
芥:それは形態の暴力なんですよね、
三島:うんうん
芥:僕があなたが敗退されたと言ったところは、そこにあったわけですよ、
三島:ああ、ああ、
芥:あなたのその形態、とり得た形態が、一向に暴力的に、僕らにはもうなんら差し迫らないということですね、僕らの行為そのものは、形態が即内容であり、内容が即形態になる、これは一つのまあ革命ではなくて、決して一つの表現なんですけれどもね、ただ空間自体はおそらくそこに、歴史の可能性そのものという空間が現出しうるということ、だからそういうところへ来て物書きが何かをおっしゃると、僕は何かとても恥ずかしいような気がするわけです、まああなたはゲームをデマゴーゴスに変えようとしてるわけですけれど、まあ日本がなければ存在しない人間、
三島:それは僕だ、
芥:ところが、僕の祖先は一向に日本の中にも見つからんし、どこにも見つからん、
三島:ああそう、
芥:期せずしていたら僕が異邦人になったんじゃなくて周りが違法であったわけだから、
三島:なるほど、
芥:これですんなり21世紀に入っちゃうわけですけれどもね、
三島:なるほどね、
芥:我々は、
三島:あのね、少し次元を下げましょう、例えばね、解放区の問題は、つまり非常にわかりやすい問題だと思うから、解放区の問題を論じたいと思うんだが、解放区というものは、一定の物に瞬間的にぶつかった瞬間に、その空間に発生するもんであると考えていいですか、
芥:いいです
三島:いいですね、その空間あるいは歪められた空間か作られて空間か知らんが、その空間が一定時間継続する、
芥:空間には時間もなければ関係もないわけですから、歪められるとか、だから本来形が出てきたっていうところで彼が自然に戻ったとおそらく幼稚な言葉で言ったんじゃないかと思う。
三島:自然に戻ったと、なるほど、そうするとだね、それがね、持続するしないってことはね、それの本質的な問題ではないわけだ、
芥:時間がないんだから持続という概念自体おかしいんじゃないですか、
三島:そうするとだね、それが三分間しか持続しなくても、あるいは1週間、あるいは十日間持続してもですね、その間の本質的な差は全然次元としての差すらないですね?
芥:ええ、それはあの比較すること自体がおかしいわけですよ
三島:つまり次元が違うから?
芥:ええ、例えばあなたの作品とこの現実のずーっと何万年っていうのを比べろっつって、これはナンセンスでしょ、おそらく、
三島:ところがだね、俺の作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ、
芥:だからそういう、
三島:僕は空間をね、意図しないけれども時間を意図してる、そしてね解放区ってのは空間を意図するもんだからね、それがどこで時間にフラッターするかってことは、僕は興味を持ってあなたに聞きたい。ところがだね、革命戦術としてだ、ちょっと聞いてくださいね、例えば、解放区が1週間もったことは、大したことだと思うんですね、革命戦術としてね、ところがそれが3時間か4時間しかもたんということはだね、もたなかったのか、あるいはもたなくていいのか、本質的に革命にとって、それはもたなくてもいいものなのか、
芥:まあ僕は直接首謀者じゃないからはっきり言えば、だから出てきた事物に逆にやった連中の方が、やられてしまうってことですよね、
三島:そうすると解放区がやられちゃったのは事物であって機動隊じゃないのか、
芥:そうでしょ、
三島:あれは事物が解放区を崩壊させた、それは時間と考えてもいいわけだ、
芥:むしろ時間、まあ時間じゃなくて、むしろだからその現象形態の事物なり空間でしょう、
三島:現象形態の事物なり空間なりは単なるそういう瞬間的に発生した空間というものをいつも押しつぶす働きしかしないじゃない、
芥:え?
三島:押しつぶす働きしかしないでしょ、現象形態としての事物ないし空間は、
芥:じゃないでしょう、だってそれは関係を持ってそこに対処するからですよね、文明をもってしたり、自らの存在を持って事物に対処することからおそらく人間の歴史ははじまってるわけで、
三島:歴史ってのは持続でしょ、時間がそこにある
芥:持続じゃないでしょう、むしろ、可能性そのものの空間のことでしょう、おそらく自由そのもの、ところが普通人間っていうのは自由に直面すると、そこで敗退してしまうっていう、まあそういう文明の習慣が、身についてしまったということでしょうね。あの全共闘のバリケードにしろ、なんにしろ、一つのまあ歴史の認識の一形態としてですね、だから狙撃銃的な認識じゃなくて、散弾銃による走りながらの認識、サルトル以後の認識の形態だと思う、
三島:あれが非常に新しい認識の形態だとすると、それにもし持続というものを加えたいっていう気は、全く初めから毛頭ない、そこで意思の介入する余地はないわけですか。例えばですね、一つのこの物を作るとしますね、このタバコを作った瞬間にですね、このタバコが消えちまったらのめないでしょう、どうしたってタバコというものは専売局から僕の手元に入るまで、一定時間を経過してここへくるわけですなあ、そして僕はタバコを飲んで、皆さんの前で、努めて余裕を見せてるわけですな、それで、これがね、これも既に時間の恩恵を被って、生産関係がずっと我々のところに、
芥:むしろ時間が保ち得ないからでしょう?タバコを吸うわけでしょう?
三島:ああ、はあ時間が保ち得ない、時間は十分持ってますよ
芥:保ち得ないってことでしょう、時間の方に持たれてしまうからこそ、その照れ隠しでやるわけでしょう、あなたは他志向が強いから。
あなたの舞踏はそこまで行かないってことなんですよ、全部関係の中で終始してしまう、事物には一向に触れ得ない、
三島:それは言葉ってものの性質だな、僕は言葉というものの特質は事物に触れ得ないからだね、一生懸命行動をやってるわけで、それも事物に触れ得ないとするとだね、
芥:でもおそらく作品が書けるのなら何もそういう他に対しての、デマゴーゴスを試みる必要もないのではないか、作品は自立する空間であるわけだし、
三島:僕は自立する空間だけじゃ満足しないとさっきから言ってますね、そこに時間を導入しなければ、
芥:まあその辺は開き直りでしょう。
三島:イヤイヤ開き直りじゃない。
名について
芥:なぜ評論しか書けないか、なぜ評論的な征服しか言えないか、お前がどこにいて何を見てるって言われて、君たちはどう答えるかっていうこと、三島さんもそうだけれども、お前どこにいると言って、大学とかそういう関係づけ、事物に土え行われた関係づけが使えない場合、答えようがないんじゃないかということね、もうこれを机と呼ぶことすらできない状態で、問われるわけだから、ここが900番教室だとか、いうこと自体がなくなってしまう、そうすると結局一方的に関係づけられてしまう我々、という変なこのフェイントをかけておいて、フェイントじゃない奴もいるんだけれど、その関係を逆転することということだけはわかるわけですよ、だからバリケードを作る、そこにあらゆる関係づけを排除した空間を作る、それに対して我々の側が、そのバリケードよりも高みに立って、関係づけを行わなければいけないわけでしょう。まあおそらく、この次からやる場合、街頭ブランキズムみたいのが、たくさん出てきて、おそらくアジテーターやデマゴーゴスが、生まれる時代になるんじゃないかと思いますけれど、まあそれには日本のための革命とか、っていうようなことになるとまたダメになるんで、その辺は再びブランキストであり、しかもトロツキストである連中っていうのが出てくるんで、そうすると、再び現実と時間そのへんの持続、さっき言ってた三島さんの問題が出てきて、結局虚構形態っていうのが、おそらくまた支配するんじゃないかなと思うんでね、僕は芝居なんぞをちょびちょびやってるわけですわ、まあ結局絶対二つにはならないということ、「太陽と鉄」っていうのはまあ結構なんだけどね、僕が「キンタマのスピリット」と言ったのと同じで、価値分配体系がどこにあるかということね、生産剰余が溢れてて、僕みたくフーテンしてガキまで作って平気で生きてるわけで、一向に働かなくとも、まあ価値分配体系が依然事物に対しても行われなければ、人間に対しても行われない、その辺でしょうおそらく、「太陽と鉄」っていう幼稚な言葉であれしたのは、だからその辺の価値分配体系の根幹、それはもう人間の内的持続では、所詮無理であるっていうことじゃないですか、我々がいる、事物があった、それに対して、イマージュをもってするやり方はサルトルで潰れてるわけで、むしろイマージュを事物で乗り越える時、そこに空間が生まれるわけです、だから我々はどうしても苦しいから事物に、イマージュを与えつけるわけですよね、まあ目を瞑った世界だけれど、目を見開いたまま事物に対処する、その時訪れる一つの光に対して、事物を乗り越えさせる、それが、その最初の形態がおそらく、身の回りの全てを武器に変えるということなんでしょう。だからコップでもパッと見た時これは使えるか使えないか、これだけですむ、むしろその方がいいっているのはそれですけれどもね、自分の体がある、これが使えるか使えないかまでそれは向かわなければならない、だって我々と事物との間にあるのは何かっていうことですけれどね、僕は何にも見えないんで、そこに国家があるとか体制権力があるとか何とか、色んな教えてくれる人はいますけれど、僕にはわからないというようなこと、まあその辺から僕は一度やっていきたいということですわね、
三島:今のは非常に面白いお話を伺ったんですが、二つだけちょっと疑問を提起したい、一つは名前っていうものがない世界、つまり自分が名づけられることがなく、名というものは一つの伝承ですから既に、その名のない世界でもって、いかにして我々は関係づけられることが、関係づけられるということが、可能であるかということ、これを一つ伺いたい。それから物を存在すると同時にそれを利用する、つまり利用するということの中に目的論的見地がどうしても入ってこないで、利用ってことがありうるか?我々を匙を、匙っていう形を見るとき、その匙は口に物を運ぶための目的論的な道具である、目的論をなしにして、利用ということがありうるか?この二つの問題を聞きたいんです。
芥:最初のその関係づける必要があるかないか、これはもちろん関係づけなくても、構わないわけですよね、人によっては、
三島:いやあなたがね、名前がないのにどうして関係づけられて組み込まれてしまうか、それを克服しなきゃならんかということ、
芥:それは文明という歩行器を頼りすぎるからでしょう、結局トロツキーがやられたのも文明を信じすぎた罰ですからね、
途中飛んできたヤジについての一幕
「観念的こじつけじゃないか!俺は三島をぶん殴る会があるというから来たんだよ!」
芥:じゃあ殴りなよ、まあそういうところで言っても、結局単なるあれになっちゃうんだろうからね、来てやりゃあいいわけだろう、やりたければ、ほら出てこいおら!ほら、おい出てこい!ほら、
三島:やるならここでやれよ
芥:殴るんなら殴れほら、殴れよほら、そんな遠くでいうんじゃないよ、どっち殴る、どっち殴るの、
学生C:おめえじゃねえよ、あのな一般的にな、一般的にそういうふうにね、無規定に関係ということを捨象してね、その論を立てたところで観念界のお遊びなんだよ、つまりね、その人間がね、人間が他者がいるってことは事実なんだ、それに対して自分がどのような論を立てるかっていうのは、それは君の勝手だよ、
「バカヤロー!関係なんて一番卑猥なんだよ」
芥:関係立ったところからそれを逆転するのが革命じゃねえのか馬鹿野郎、ああ?
学生C:違うよ、だからなあ、現実的なな、実在的社会的諸関係というものがまず先行する、で、それに対して意識においてどのような展開をするかということが問題になるわけじゃないか、そこでおめえさんはな他人の空間的併存ということを捨象して問題を立ててるだけにすぎねえじゃないか、そういうことを言ってるとな、東大全共闘の名が廃れるぜ、少なくとも東大全共闘っている名前使うな、
(三島のタバコに芥が火をともし、観衆のざやめきと笑い声にかき消されながら)
学生A:だから少なくともさっきからの論の展開の視点というのは、こういうとについてはおまwもと織田と僕は思うんです、つまり、実在的諸関係がそこにあると、その時にですね、僕らがそこにあるものに対して僕らがですね、その関係性っていうものに注目してですね、その能動的主体として働いた場合には、能動主体として働いた場合にはですね、その実在的諸関係そのものから絶対僕らは逃れることはできない、、、
天皇について
学生D:三島にとっての天皇と我々にとっての国家、まあその辺の関係から話していって、少し何かに行き着くんじゃないかと思うんです、
三島:これは例えば、真面目にいうんだけれども、安田講堂で全学連の諸君が立て篭もった時に、天皇という言葉を一言、彼が言えば、私は喜んで一緒に閉じこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。これは私はふざけて言ってるんじゃない、常々言ってることである、なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在言われている直接民主主義というものには、ほとんど政治概念上の区別がないんです、これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある、その共通要素は何かというと、人間の国民の意思が、中間的な権力構造の媒介物を経ないで、国家意思と直結するということを夢見ている、この夢見ているということは一度も叶えられなかったから、戦前のクーデターは皆失敗した、しかしながら、これには天皇という二字が戦前ついてた、それが今はつかないのは、付けてもしょうがないと諸君は思ってるだけで、これがついて日本の底辺の民衆に、どういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか、これは本当に諸君が、心の底から考えれば、それはくっついてこなきゃならんと、私は信じてる、それがくっついた時には、成功しないのも成功するかもしれないんだ、私が今、天皇天皇というのは、今まさに洞察されたように、今の天皇は非常に私の考える天皇ではいらっしゃらないからこそ言える。そして、この私の考える天皇にしたいからこそ、私は言っているんであって、確かにそれはおっしゃる通りだ、しかしそれを実現するには、
「匪賊共闘は刑務所で死ね」
うんそれはその通りだ、しかしだ、
「朕はたらふく喰っているぞ、御名御璽」
朕はたらふく喰っているというのはだね、それは共産党の諸君の嫌いな民青なんかの考えそうな、非常に下劣な文章である、ところが、天皇というものは、それほど堂々たるブルジョワじゃないんだ、もし天皇がそのたらふく喰っているような、堂々たるブルジョアであったら、革命ってのはもっと容易であった、それでないからこそ、革命は難しいんじゃないか、そして、その難しさの中でだね、諸君は戦い、僕だって戦ってるんだ、それはね日本の民衆の底辺にあるものなんだよ、それを天皇と呼んでいいかどうかはわからない、たまたま僕は天皇という名前をそこに与えるわけだ、それをキャッチしなければだね、諸君も成功しないし、僕も成功しない。
諸君にとっては僕の行動は全くみっともない、自衛隊なんか入って、ミリタリールックきたりなんかして、みっともないというだろうが、私に言わせれば、あんな覆面かぶって、大掃除の手伝いみたいのもみっともない、これは私に言わせればそうなんであって、行動の無効性ということについちゃあ、五十歩百歩だと私今んとこ信じてる、何とかしてこれを有効性に持って聞くときには、殺し合う時だ、今殺し合う時期であれば、お互いに殺し合う、しかしそこまで行かなきゃ、最後の話は、つかないんじゃないかということを私は言いたいんです。
私が人間天皇というときには、統治的天皇、権力形態としての天皇を意味しているわけです。
芥:それでどうなんですか?それで
三島:だからですね、私は天皇というものに、その昔の神ながらの天皇というものの一つの流れをですね、もう一度再現したいと思ってるわけですよね、
芥:それと自己を一体化させたいというところに、美を見出すわけ?
三島:そうですね
芥:これは単なるアレですよね、一種のオナニズムだし、イマージュと自己の、そうすると事物に対して何らなすすべないわけですが、
三島:そうじゃなくてね、日本文化というものはだね、そういうものが、
芥:あなたはだから、日本人であるという限界を越えることは、できなくなってしまうってことでしょう、
三島:ああできなくていいんだよ、
芥:あ、いいんですね
三島:僕はね、日本人であって日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいいんだ、その限界は全然僕は抜けたいと思わない、僕自身、
芥:うん
三島:だからまあ、あなたから見りゃかわいそうだと思うだろうが、
芥:非常にそれは思いますよね、僕なんかは、
三島:しかしやっぱり僕は日本人である以上の、日本人以外のものでありたいと思わないんだな、
芥:しかし日本、日本人というのは、どこに事物としてあるわけですか?
三島:事物としてはね、外国いきゃ分かりますよ、あなたどんなにね、英語喋ってると、自分は日本人じゃないような気がするんですね、英語が多少上手くなるとそして、道を歩いてて、ショーウィンドーにね、姿が映ると、この通り胴長でね、そして鼻も高くないし、「あっ、日本人が歩いてる、誰だろう」と思うと、てめえなんだな、これはどうしてもね、外国へ行くと痛感するね、
芥:しかし人間すら事物にまで行かない限り無理ですよ、
三島:あーその国籍を脱却することは?
芥:脱却っていうよりむしろ最初から国籍はないんであって、
三島:あなた国籍がないわけないだろ、あなたは自由人として僕は尊敬する、それでいいよね、だけども僕はだね、国籍を持って日本人であることを自分じゃのけられないと、これは僕、自分の宿命であると信じてるわけだ、
芥:それは意思の関係づけでやられてるわけですよね、だから当然歴史にもやられちゃうわけだし、
三島:やられちゃうっていうか、つまり歴史にやられたい……
芥:むしろいるということに?
三島:ああそういうことに喜びを感じる。
芥:幻想の中で?
三島:ああ幻想の中で。
芥:うん、だからこそ人殺しになったときから、動き出すっていうわけでしょう、まあ実際動くか動かないか、わからないけれども、
三島:そりゃわからんけれどもね、そういうふうなつまり精神行動になってしまうんだね、
芥:もう俺帰るわ、退屈だから、ごめんね。
木村:もうちょっとこの認識の問題について話を関連して、まあもうちょっと深く掘り下げたいと思います。三島氏はですね、さっき……時間、空間の超越としての美、それがまあ、創作、、、
三島:こんなことを言うと僕はね、もう揚げ足取られるから言いたくないんだけどもね、一つ個人的な感想を聞いてください、と言うのはだね、僕らはつまり、戦争中に生まれた人間でね、こう言うとこに陛下が立ってて、まあ座っておられたら、3時間全然微動もしない姿を見てる、とにかく3時間、全然木像のごとく微動もしない、卒業式で、でその後天皇から私は時計をもらった、そういうねつまり個人的恩顧があるんだな、こんなこと言いたくないよ俺は、言いたくないけれどもだね、人間の一人の個人的な歴史の中でそういうことがあるんだ、そしてね、それはどうしても否定できないんだ俺の中でね、それはとても立派だった、その時の天皇は、
小阪:まあ論理はさっきから一貫してると思うんです僕の、でそれを答えてもらいたいと、
三島:それはもうね、論理は確かに一貫しているけれども、僕は論理の通りに行動しようと思ってない。つまり意地だ、もうね、ここまできたらだね、意地だ、ひとまずね、これはね、あなたがたに論理的に負けたと言うことを意味しない、つまりね、天皇を天皇と言ってだね、諸君が一言言ってくれれば俺は喜んで諸君と手を繋ぐのに、言ってくれないからいつまで立ってもね、殺す殺すって言ってるだけのことさ、それだけさ、
木村:一応討論はこれで終わりにして、あとは三島さんの方から若干の感想を述べていただいて、それで一応この集会を終わりにしたいと思います。
学生E:これは会場の諸君とは関係ないんですけど、僕から三島氏への呼びかけですけど、僕はあなたに共闘していただきたい、それで、さっき、あなたはこういうことをおっしゃった、「安田講堂に入るにあたってもし諸君が天皇という言葉を口にしたならば、喜んで戦うだろう」と、僕はこの討論の中で「天皇」という言葉を口にした。三島氏がさっき言ったことが本当ならば、僕と共闘してしかるべきだと思う。
三島:いやあ今の言葉は非常に感銘が深く聞きました、私はここであの、つまり既成概念の破壊ということについては、私も長いこと多少とも、文学者として多少やってきたつもりでありますが、それがいつの間にか、既成概念のなんと言いますか、権化のように扱われたことに、ある、何というか、嬉しさ、嬉しさじゃないな、何ほどかを感じて、ここに立っている、それで、今天皇ということを口にしただけで共闘するといった、これは言霊というものの働きだと思うんですね、それで、彼が天皇ということを、口にするのも汚らわしかったのが、この2時間のシンポジウムの間に、あんなに大勢の人間が、例え悪口にしろ、天皇なんてたくさん言ったはずがない、言葉は言葉を読んで、翼を持って、この部屋の中を飛び回ったんです、で、この言霊がどっかに、どんなふうに残るかは知りませんけれども、その言葉を、言霊を、私はここにとにかく残してここを去ってくんで、これも問題提起にすぎない、私は諸君の熱情を信じます、これだけは信じます、他のものは一切信じないにしても、これだけは信じるということをわかっていただきたい、
「それで共闘するんですか?」
今のは一つの詭弁的な誘いでありまして、非常に誘惑的であったけれども、私は共闘を拒否します。
参考
豊島圭介.三島由紀夫vs東大全共闘:50年目の真実.2020(Amazon prime video).
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