モビリティと経済からみたアストロツーリズムの考察

研究成果

はじめに

人々が何を想って星を眺めるかは、いつの時代かによっていくぶん様相が異なっている。原初的には、それは農耕を営む人たちが、暦と同じ役割を果たす生産手段として見上げられた。あるときには、それはアカデミックな対象として関心が寄せられ、現代には当然の公理として持ち込まれるに至る成果を挙げるが、宗教的権力との衝突という悲劇的な歴史もある。そして、我々が暮らす今の社会では、労働に対比される余暇活動の時間に、楽しみの対象として、神秘的な、センチメンタルな、詩的な感情の源泉として、光り輝いている。

本稿で最も関心を寄せるのは、余暇活動の対象として見上げられる星と、資本主義社会に必然のモビリティの高度化との関連で論じることにある。そのような活動は、一般にアストロツーリズム(以下ATと略す)と呼ばれている。モビリティの文脈からATはどのような顔を覗かせるであろうか。

1.商品化される星

1.1富の商品化

これから議論をはじめるにあたって、資本主義社会の本質を克明にいいあてた、有名な序文を引用しよう。

資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。〔マルクス,2019;65〕

マルクスは資本主義の長大な批判的分析をはじめるに際して、その生産様式で表現される富の特殊な現象について宣言した。すなわち、産業革命より前の社会では、その「潤沢さ」ゆえに誰もが平等に利用できていた資源、たとえば牧草地や水が、何者かの手によって「希少性」を備えたものに変えられてしまうと、たちまち商品へと姿を変える。中世社会の自由な自営農民たちによって所有されていた農地は、資本家階級となる稚児と政府の悪辣極まりない結託によって、暴力的な手法によって「収奪」された。追い出された農民たちは都市の労働市場へと裸一貫で投げ出され、みずからの労働をのぞいて何も得るものがない、立派な労働者としての振る舞いを求められる[1]。一方で、農地は独占され、価格のついた商品として取り引きされるようになる。

かつては川から無限に採取可能であった水の場合においても、この事情は変わらない。中世的な同職組合からマニュファクチュアを経て、大工業へと変遷する経過で、生産手段を駆動する動力もまた、労働者の筋力支出から、水力、蒸気機関へと移行する。労働者の手足の働きが直接に生産手段であった場合、商品生産の場所は、労働者がいるならばどこでも問題ではない。しかし、蒸気機関によって機械を駆動されるとなれば、生産性の問題から、機械と労働者が、一箇所に集積している必要が生じる。そこで都市にはおびただしい労働者が移り住み、また工場は林立し、著しい環境汚染が継起する。もはや水は、どこでも手に入るわけではない。かろうじて飲用に耐える水を、ペットボトルに詰めて売られ始める。独占可能な商品として姿を変えた。

この商品の集積こそが資本主義社会の一条件をなす。水が資本の運動に把捉され、商品化を免れなかったのと同様に星空もまた、商品化の傾向に捉えられつつある。かつては土地あるいは水が貨幣と交換されなかったように、前資本主義社会では星空の美しさが価格をともなって売買はされなかった。が、今ではそうではない。星は商品化[2]された。

1.2希少性の原理による価格表現

商品としてあつらえられた星空がいかなる貨幣額を身にまとうかは、その希少性と――唯一の原理ではないことは言わずもがな――関係している。近代以前では、天候さえ許すのであれば、星を眺めるのに場所を選ぶ必要はなかった。しかし、近代よりあとでは、工場はガスを吐き出し、自動車は大地を駆け回り、また、人間は光の恩恵をほしいままにした。近代化が急速にすすむ戦後の東京にあって、生涯を天文とともに過ごした野尻抱影が「戦前に比べると、星数」が「げっそりと減っ」[3]ってしまったと嘆息をもらすのは印象的である。

星空からの「疎外[4]」が都市部で進展する程度にしたがって、その濁った星空の価値は下がるが、対比的に、都市から離れた場所、つまりは与論島や弟子屈(北海道)をはじめとするATの拠点では、澄み渡った星空の価値が相対的に上昇する。ゆえに、星空そのものの貨幣額(星空案内人の労働力価値はこれとは無関係である)を高めるためには、都市の空気を汚染すればよい、というのはあまりに滑稽であり、そのような反社会的なことが認められないことは言うまでもない。

2.移動を伴うアストロツーリズムの持続不可能性

以上の文脈から発展が目指されるATは、本質的に持続不可能な性質を隠しもつ。それは、狭小な国土を有する日本においては顕著に現われる。希少性を獲得する条件である星空の汚損が、都市部の経済成長によって成し遂げられたとしよう。それは直ちに、ATに取り組む拠点にとっても光害の脅威となって現われる。西はりま天文台は日本の国内では最高水準の天文台でありながら、100km圈内に県庁所在地が4地点所在するため、国際照明委員会がCIE150:2017で定めるところの環境区域「E0」を満たせていない(環境省,2021、図1はここから引用した)。

図1.兵庫県立大学天文科学センター西はりま天文台とその周囲100km

あるいは満天の星が、希少性を高められる程度にしたがって星を追う者は、東京から奥多摩に行けば十分であったのが、次第に長野の高地へ、与論島へと行かねばならないというように、より高度の移動を必要とする。他方、逆の側面からも、すなわち資本主義の発展に伴う通信移動技術の発展の側面からも、移動の増大を手助けする。資本の絶えざる貨殖への衝動は、一滴でも多くの剰余価値を労働者から搾り取ると同時に、その条件である生産性を向上させる。この向上は、我々の移動にも寄与し、20世紀を通じた資本主義の成熟のうえに生きる我々は、この恩恵を享受している。かかる文脈からATを捉えるとき、与論島や弟子屈、世界的にはナミブ砂漠がそれにふさわしい場所として浮上しているのが、「なぜそこで星を眺めるのか」という問いの背後に隠された理論的な根拠が明るみにでる。

これら二側面から生じる移動の増大は、環境を損ねざるを得ないという点で問題含みであり、持続可能とは言い難い。ならば、どうすればよいか。もう一度、星空をおおやけのもとに奪還する必要があるだろう。富(豊かな星空)の偏在の解消は、遠隔地に足を運ぶ必要を縮減し、ゆえに移動量は抑制される。

おわりに

時空間の圧縮と呼ばれる世界的傾向が極限に近づこうとしている今、我々の社会は大いなる岐路に立たされている。移動を縮減の方向へとコントロールし、地球にかける負担を限りなく減少させるのか、あるいは、移動そのものから生じるデメリット、たとえば二酸化炭素の排出を縮減し、移動は変わらずに行うか、二つに一つを我々は選ばなければならない。その選択は、直接に今後のATのあり方を、ひいては観光という人々の移動現象のあり方を決定づける。

本稿では、ATという現象をとりわけ移動に着目し、古典的な理論に依拠しつつ試みに論じた。そこでは、(まだ完全には成し遂げられていない)産業化を志向するATには、根本的に持続可能性とは相反する存立条件が見出される。この課題をいかにして解決するか。マルクスが物質代謝の亀裂を乗り越える方法として示した解決策からのアナロジーでは、アソシエイトに基づいた所有形態のもとへ星空を奪還することが挙げられるのかもしれないが、果たして彼の慧眼は現代までも見通したか否か――これについては別稿を待たれたい。

参考文献

神田孝治(2012)『観光空間の生産と地理的想像力』ナカニシヤ出版,pp.201-226.

澤田幸輝・北尾浩一・米山龍介・尾久土正己(2021).「与論島における星文化とその観光活用に向けての一考察」.『観光学』,第25巻,pp.69-82.

カール・マルクス(2019),『資本論』(日本共産党中央委員会社会科学研究所監修)新日本出版.

環境省(2021)『光害対策ガイドライン』.

斉藤幸平(2019)『大洪水の前に』堀之内出版.

――(2020)『人新生の資本論』集英社新書.

ジョン・アーリ,ヨーナス・ラースン(2014)『観光のまなざし』増補改訂版,法政大学出版局.

山田良治(2018)『知識労働と余暇活動』日本経済評論社.

――(2010)『私的空間と公共性;「資本論」から現代をみる』日本経済評論社.


[1] カール・マルクス(2020)『資本論』第1巻,新日本出版,pp.1296-1328.

[2] 社会科学において「商品化」という言説が批判的に語られる際、その使われ方には主として2通りが発見される。一つは、経済学においての使われ方である。この意味で「商品化」は、ほかの学問領域と比較してより厳密に、あらゆる富が商品と変身するためには、独占可能性の条件を満たす必要があり、この意味では、我々が自由に吸ったり吐いたりできる空気は、缶詰に詰めるといった不思議な工程を挟まない限り、商品にはなれない(山田2010)。二つ目は、社会学や人文地理学においての使われ方である。この意味では、「商品化」はイメージが商業的に利用される場合を指して、広汎に使われる。本稿では前者の意味合いを積極的に用いている。なぜならば、いまや星空は、観光客争奪合戦に没頭する辺境の自治体によって、その土地を訪れた者のみが楽しめる独占可能物として、商品化されているからである。

[3] 野尻抱影『星は周る』平凡社,2015年.

[4] 従来、「疎外」の概念はマルクスのなかでも前期と後期のあいだで使われ方に違いがあり、その断絶ゆえに彼の理論の中心を占めるものではないと廣松やアルチュセールによって主張されたが、近年の抜粋ノート研究を通じ、彼のエコロジカルな資本主義批判の核心的な位置を占めている(斉藤,2019;54)。

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