二つの対立軸を生みながら形成された観光地としての伏見稲荷大社

京都の謎

はじめに

かつて京都の町を八坂神社と南北に分け合ったとまで言われた伏見稲荷大社は、今なお国内外を問わない観光者から根強い人気を集めている。長らく日本で最も外国人旅行客に人気の観光地であり続け[1]、いよいよ本格的に夏が始まろうとする頃に執り行われる本宮祭とそれに先立つ宵宮祭では、ちょうちんに赤く照らされた鳥居を地元の人々がくぐり抜けている。本稿では日本の代表的な観光地となった同社の形成過程について述べる。

8世紀に秦伊侶具が、餅を的として弓矢を放ったところ、餅が白鳥に姿を変えて飛び立ち、降り立ったところに「稲が成った」のが、伏見「稲荷」大社の始まりであり、今日に至るまで1300年の歴史をもっている。とはいえ、宗教的聖地としての伏見稲荷大社と、観光客がまなざしを向ける対象としての伏見稲荷大社は同列に語られるべきではないであろう。ここではもっぱら後者の意味から同社を捉えて、とりわけ近代以降の交通体系の変容という史的観点から形成過程について論じる。

「1.聖地の変容」では、聖地の場所性に着目した既往研究を、同社との関連にこだわらず記述する。「2.伏見稲荷大社の観光地形成過程」では、既往研究を参照しながら、交通の発展が観光地としての伏見稲荷大社をつくりあげたプロセスについて考察する。なおここでは、筆者が同社の個人的なフィールドワークを通じて得た知見に基づいて考察を試みた。

1.聖地の変容

1.1交通がもたらした変容

近代以降に時間―空間の圧縮とも呼ばれる、交通体系の変容がもたらした宗教的聖地への影響はことに大きい。元来人間の移動に仕えたものは、おのれの脚ただ一つに他ならない。したがって、そもそも近代以前にあった移動の制限を度外視したとしても、人々はみずから生活する場所に、ゆるやかに拘束されていた。とはいっても、全く遠出をしなかったわけではもちろんない。ある村落ごとにお金を出し合って、何年かに一組ずつお伊勢参りをはじめとした聖地へと、旅行に出かける「講」という組織が各地に見られた。

近代の幕開けとともに、馬車が通俗的に用いられるようになり、時代を追うごとに乗り合い自動車、バス、鉄道が発展し、徒歩のみが移動の手段であった時代とは全く異なる社会を現象させる。聖地もまたこの影響を免れない。鉄道が敷かれると、徒歩移動を前提に親しまれた恵方参りが初詣に取って代わられた。川崎大師を皮切りとして、明治20年以降に都市郊外の名刹へと初詣に出かける習慣は鉄路敷設の結果として定着した(平山2015)。しかし、参詣客はこれまでと同様に、宗教的な目的をもって聖地を訪れるのではなく、文明の産み落とした利器としての鉄道で行楽に出かけて、そのついでに社寺に出かけるといった不信心な目的で訪れるのであった。あるいは、鉄道会社の営利的下心に扇動された節も大きい。京成電鉄と国鉄は成田山新勝寺への参詣客輸送をめぐって熾烈な競争を繰り広げ、割引乗車券の発売を通じて多くの市民が引き寄せられた。成田山新勝寺が初詣に訪れられる代表的な社寺となった所以が伺える。ひるがえって関西では、同様に四国遍路が鉄道、バス、汽船の発達が通俗化をもたらした(森2014,2021)。遍路の御利益を求めつつも宗教的意義は後景に退き、車窓の内側から四国の風景を楽しむ行楽的意義が鮮やかになった。俗化の傾向の反動として、本来は教義をもたないはずの四国遍路に、菅笠や金剛杖という様式の設定で「正統」を定める動きもあった。

1.2記号論がもたらした変容

文化/空間論的転回よりあとの人文地理学では、聖地を記号論的に読み解く試みがなされた。揺るぎ難く、確固たるものとして、聖地があると理解されていたが、記号論では、意味されるもの(シニフィエ)と意味するもの(シニフィアン)が恣意的に結びついたものとして捉えなおす(森2021)。意味するものとは、特定の場所(四国遍路の例では、四国という大地にあたる)をさし、意味されるものとは、概念や価値(同じく四国遍路の例では、「弘法大師」という概念や「遍路には病気平癒の効能がある」という価値にあたる)をさす。

この解釈に従えば、聖地とは遠い過去に聖蹟となった、限定的かつ固定的な場所ではなく、時代の遠近を問わず、広汎的かつ流動的(つまり時間の経過が聖地の数を増減させ、また聖地であった場所が忘れ去られる一方で新しい聖地が崇め讃えられるもする)な場所である。例えば、フランスのルルドは1858年に少女の奇蹟体験を契機として、キリスト教カトリックの聖地として正式に認められた(森2021)。

以上に述べたような聖地をめぐる近現代の状況は、伏見稲荷大社の場合にもおおよそ当てはまる。次節以降は、同社の観光地としての発展過程についてみていく。

2.伏見稲荷大社の観光地形成過程 

2.1近代以前より続く伝統的な様式

稲荷山が神の降り立つ神聖な場所として崇拝の対象となってから1300年になる。一方、1877(明治10)年に東海道本線京都駅が開業した。日本最初の鉄道(新橋―横浜間)が1872(明治5)年に開業したから、その5年後にあたる。京都駅開業から数えて、今日(2022年2月8日)に至るまで145年が経過したと考えるならば、伏見稲荷大社の歴史はそのほとんどが、近代以降の交通体系とは無縁である。ゆえに、第一に近代以前に形式化した信仰についてふれる。

長らく首都であった京都は、当然ながら交通の要衝でもあった。東からは東海道、東山道、北陸道が、西からは山陽道、山陰道、南海道が京都へと接続している。同社の前には伏見街道が走っており、この上なく交通に恵まれているといえよう。統計的な資料は残っていないが、同社を訪れる外部からの信仰者は、土着の氏子信仰者とともに多かったと予想される。

ただし、彼らが同じ信仰の様式を持っていたわけではない。内部の信仰者たちにとっては、生活と宗教が分かち難く結びついている。一年を通して執り行われる四季折々の祭りは、京都に暮らす人間の生活を整序づけた。たとえば、農耕にだけ着目した場合は、稲種の充実した生育を祈る水口播種祭に始まり、“早乙女”の舞う田植祭、刈り取りの抜穂祭、その年の豊作に感謝する新嘗祭と、信仰者の生活を規定した。あるいは、流行り病や憑き物をはじめとする生活の脅威に備えて、節分祭、夏越の祓え、大祓式が執り行われた[2]

写真1.稲荷山側面のお塚群
(2022年1月5日筆者撮影)

一方で、外部からやってくる信仰者からは、いうまでもなく上にあげた様式と相互に往来される場合も生じたであろうが、それとは明白に異なる独自の信仰様式が見出される。というのは、前者が神官権力の主導によっておおやけに語られる神を崇め奉るのとは対照的に、後者すなわち外部からの信仰者は、私的に見出された神に対して崇拝するという点である。同社の主祭神は、宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神であるが、これらおおやけに祀られている神々のほか、八百万の神々が「お塚」に名を刻んで信仰されている。管見の限り、古事記や日本書紀には現れない神の名が多く見受けられた。

写真2.私的な信仰と思われるお塚
(2022年1月5日筆者撮影)

私的なのは信仰者の内面世界だけにとどまらない。この「お塚」が配置されているのは、本殿付近の稲荷山山麓ではなく、山中、あるいは麓であっても本殿のある正面方向ではなく、側面であった。山麓の本殿に近い場所は、先に挙げた五柱の主祭神を祀る場として、神官や巫女が出入りするおおやけの性格が強い。それとは反対に、四ツ辻より標高の高い、三ノ峰から一ノ峰にかけての山頂付近は、主祭神を祀る場としての性格を併せ持ちつつも、山麓正面とは明らかに異なる民間信仰の性格が強まる。つまり、主祭神の御利益に与ろうとしているのか、主祭神を祀る中心的な場(そこには神聖なものとして扱われる大岩が置かれている)の周縁に「お塚」が配置されている。ことに麓へとくだると民間信仰の周縁的性格は格別である。月並な観光客はおよそ立ち寄らないであろうと思われる稲荷山の山麓、その側面では、退廃的な雰囲気を満たして、ひっそりと「お塚」が立ち並び、それでいて細々とではあるが、誰かの手によって縷々面々と信仰が続けられている痕跡がある。これらはおおやけの管理を受けていない。すなわち、正式に大社の許可を得て置かれたわけではなく、あくまで私的に、稲荷山の神力にあやかろうと置かれたのである。とはいえ、このような中心対周縁の信仰構造は近代以前より慣習化されており、問題視されてはいないようである。

このような「お塚」は、つややかな千本鳥居とは対照的に観光者の注目を浴びる機会は得なかったが、稲荷山全体に目をやると、その規模はかなり大きい。「根上がりの松」近くにある階段の分岐[3]から順路を外れると、神仏習合の名残を色濃く残す滝行場がいくつか出現し、それらはおびただしい「お塚」の群集に囲まれるように位置している。分岐した小道を辿ると同様の場所がいくつもあり、一つ一つの規模も、フォーマルな信仰の場である山麓本殿に劣らないほどである。中心対周縁、稲荷山に見出される宗教的性格はこれらの二側面の集合として完成される。

2.2鉄道がもたらした中心―周縁の際立ち

上の節に述べたように、かかる宗教的性格をもつ空間としての伏見稲荷大社は近代以降の交通体系の変容によりいかなる変貌を遂げるのであろうか。第一の変化、東海道本線の開業はどのような変化を与えたかを見ていく。

東海道本線京都駅は1877(明治10)年に、次いで東京方面に延伸されるかたちで京都―大津間が1880(明治13)年に開業された。しかし、現在の東海道本線と同じ経路を辿っていたわけではない。現在は京都―大津間はトンネルを用いた直線的な線形になっているが、当時のトンネル掘削技術では迂回せざるを得なかった。そこで、京都駅を東京方面へ出ると、いまのJR奈良の稲荷駅付近まで同一の経路を辿り、そこから東方面へ曲がるというルートであった。つまりは、京都―大津間開業当初、大社のすぐそばを当時としては最新技術の鉄道が走った(老川2014)。

もとより伏見街道が稲荷山西方を南北に貫いており、同社の主要な信仰の場もやはり西側にあったと考えられるが、道があるのは東方の山科の地においても同様である。今なお残る稲荷山に張り巡らされた参詣道は、山科方面とも通じており、徒歩のみが険しい道を歩く手段であった時代は相対的に山全体を信仰の場とみなすが、反対に、徒歩よりも優位な交通手段としての東海道本線の開通は、稲荷山の「正面」をより際立たせる。その結果、中心と周縁は互いに反発し合い、明確な違いをもつ空間として見出される。すなわち、鉄道は中心をより中心らしく、周縁をより周縁らしく分化させた。

2.3鉄道がもたらした聖―俗の分化

鉄道のさらなる敷設は、聖地である伏見稲荷大社に新たなる対立軸を生み出す。すなわち、元来そうであったように聖なる空間として大社と、新たに見出された行楽の行き先のような俗なる空間としての大社である。

大社をとりまく鉄道事情は、明治年間に概ね原型が完成される。琵琶湖疏水の付帯事業として日本初の電気鉄道事業が発足し、これを皮切りに京都市電は街中を張り巡らせる。1904(明治37)年になると、京都市電稲荷線勧進橋―稲荷間が開業する。次いで、1910(明治43)年には京阪電気鉄道の天満橋―五条間開業が開業し、これをもって遠方から同社を訪れる手段は省線・市電・京阪の3つとなる[4]。時代が少し下り、大正時代になると稲荷山山麓と頂上を結ぶケーブルカーを敷設する計画が浮上するが、ほどなく風致を害する恐れがあるとして却下された。

成田山新勝寺への初詣客輸送をめぐって各鉄道会社間で熾烈な競争が繰り広げられ、またそれは神聖な空間の急速な俗化に寄与した歴史は、既に「1.1交通がもたらした変容」に紹介した。伏見稲荷大社もまた、同様の経路を辿る。京阪電車は積極的に自社鉄道を利用した参詣を進める広告を打ち、その奏功にあやかるように、同社は多くの寺社は林立する関西でありながら随一の参詣先の地位を築き上げた。と同時に、川崎大師と同様、行楽の目的で訪れる観光者の急増は想像に難くない。

ここで、新たに聖―俗の対立が生じる。先に挙げた中心―周縁の対立軸は宗教性についての言及であったが、いまや宗教性さえも後景に退く。周縁はマイノリティによって細々と維持されるが、伏見稲荷大社の表象からは外れる。社会的に構成される空間としての伏見稲荷大社をいま築こうとするものは、かつては周縁と対比された中心にあって信心する宗教者であり、そして新たなる外部者としてやってきた旅行者、この二者に他ならない。

おわりに

資本の肥大化に伴って移動の容易さが格段に向上するのと軌を一にして、今日に至るまで深まるばかりである。俗化の傾向が兆した頃は、聖―俗の対峙が目に見える衝突として現れなかったが、オーバーツーリズムが声高に叫ばれる2019年になるとどうであろうか、無宗教を自称する多くの日本人でさえも、異文化圏からやってきた旅行者の罰当たりとも取れる行動に腹を立てる、というのは単なる一例に過ぎない。宗教的な意味を希求する宗教者と行楽的な意味を欲する旅行者の不和は無数にある。

しかし、この二者に境界を定めるのも、実のところ困難である。よそ者とは誰か、反対によそ者でない者とは誰か、宗教者とは誰か、旅行者とは誰か――これらの問いには答えられそうにない。このポストモダン的な流動化、断片化、不確実化の傾向が強まったとしても、伏見稲荷大社に生じる人々の不和は一向に癒されないであろう。

本稿では、観光地としての伏見稲荷大社がどのような経過を辿って形成されたのかをみてきた。そこでは二つの対立軸、中心―周縁および聖―俗を観光地の形成過程の重要な概念として考察を加えたが、必ずしも現代的な問題解決の手法として妥当するわけでもないと最後に述べた。不確実性の増す未来がいかなる影響を伏見稲荷大社の空間形成に与えるのか、注目を続けたい。

参考文献

  1. 老川慶喜,鉄道の観光の近現代史,河出書房新社,2017.
  2. ――日本鉄道史幕末・明治篇,中公新書,2014.
  3. 鉄道省,稲荷山鋼索鉄道敷設願却下ノ件,1926,
403 Forbidden

(最終閲覧:2022/01/30)

  • 中村陽監修,稲荷大神(イチから知りたい日本の神さま――2),戎光祥出版,2015.
  • ハーヴェイ,吉原直樹監訳,ポストモダニティの条件(社会学の思想③),青木書店,2001.
  • 平山昇,初詣の社会史――鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム,東京大学出版会,2015.
  • 訪日ラボ,インバウンド人気観光スポットランキング2位「伏見稲荷大社」の人気の理由・インバウンド対策とは,https://honichi.com/ranking/spot2020/fushimiinaritaisha/(最終閲覧:2022/01/14).
  • 森正人,四国巡礼;八八カ所巡礼の歴史と文化,中公新書,2014.
  • ――3章 聖地 聖と俗の関係から読み解く,神田孝治・森本泉・山本理佳編,現代観光地理学への誘い,2021,pp.30-37.

[1] トリップアドバイザーによる調査によれば、訪日外国人旅行客が選ぶ日本の観光地で2014年から2019年まで1位であった。Cf.7.

[2] 長い歴史のなかで姿形を変えた祭りや、一時的に中断された、またはされている祭りがあるのは当然予想されるから、ここに列挙した祭りごとは現在執り行われているものに基づいている。

[3] 熊鷹社方面に歩いた場合、この分岐は右手に見える。本来ならば地図を作成したうえで図示すべきであるが、紙幅の都合上割愛した。

[4] 現在京都市電は廃止されており、京都市バスが同等の役割を担っている。廃止後に長らく隠されていた市電の線路が伏見稲荷駅前の再整備によって露出し、今は疏水にかかる橋付近で確認ができる状況にある。

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